ここに写っている機材だけでも、日本未上陸の機材ばかりである
音の哲学についてここまでシリーズで書いてきましたが、結局のところどうすることで自らの音の哲学を確立し、魅力的な音を作り、的確な聴き方を手に入れられるのか・・・今の日本の音楽プロダクションや音楽業界全体として、現在は岐路に立っていると思っています。
結局のところの結論として、作る場合でも聴く場合でもグローバルスタンダードを強く意識することに、議論は集約されるものと思っています。
世界はインターネットによってどんどんと狭くなり、情報を世界中から得ることや意思疎通を行うことはもはや少しも難しいことではなくなってしまいました。翻訳機能も相当に進んだ昨今、言語の壁はもはや無いと言えるでしょう。同時通訳は既に人の手によるものではなく、誰もが簡単に手に入るソリューション・アプリとして使えるものへと変貌を遂げています。そうなると、これまで言語の壁が大きく隔たりを作っていたとされる前提は完全になくなり、もはや”能力”だけに世界との隔たりの議論は集約されます。では、この能力とはいったい何なのか?僕の場合はアメリカやヨーロッパとのリレーションによって、学びや仕事が人生の多くを占めていますので、日本との格差というものを肌身で感じてきました。
それらを端的に述べるのであれば、新たなことへの果敢な挑戦と、その挑戦を社会全体で育む文化においては、日本が大きく学ぶ必要のある点だと思っております。
これまで僕は日本に多くの機材を持ち込んできました。しかもそれは国際エンドーサーとして、日本には情報が非常に乏しいものを国内へ持ち帰りました。この時に
「必ずこの機材は、僕の音楽活動にとって大きな分岐点となる」
と思い、一大決心をして大量の情報と共に自分の信念に従いました。そして、そもそもこの国際エンドーサーを成立させるためには、先方のメーカー側のオファーが必要なわけでして、当時僕が一番最初に国際エンドーサーとなりえたのは何と天下のSPL社でした。結局「SPL社ほどの会社が認めたということであれば」という思考がその後に国際エンドーサー獲得を大きく後押ししたことは間違いありません。天下のSPL社が最初の国際エンドーサー契約というのは、恐らく皆さん想像だにしなかったと思います。もう少しライトなメーカー、例えばプラグインメーカーなどから入って行き、徐々に実績と共にSPLのような王者とも言うべきメーカーに近づいて行ったのではないかと思われたかと思います。しかし実際は、SPLが僕に対して最初の国際公式エンドーサーという冠を与えてくれました。当時の僕はアイディアで満ちていましたが、世界では全くの無名で、「日本のHiro」と言われてもピンとくる人はいなかったと思います。それが昨今では、Nammshowでバークリーの先生であるジョナサン・ワイナーと、HEDDのCEOフレディが、
「日本のHiroって知ってる?」
「ああ、教え子だよ」
という会話がFacebook越しに聞こえてきたりと、知らず知らずのうちに自分の名前が世界各国で知られるようになり、今ではドイツを中心とするメーカーの人たちがわざわざ日本に来てプレゼンテーションをしてくれるまでになりました。
ここで言いたいことは何なのか?僕がお伝えしたいこととは、無名だった僕は果敢にヨーロッパの仕事で実績を上げて行き、SPL社に拾ってもらいました。そしてSPLは、当時全く無名の僕を国際公式エンドーサーとして拾い上げ、新たな企画・立案という形でビジネスに生かしました。そしてSPLのまだ売り出されていない、実績のない機材にとてつもない可能性を感じ、エンドーサー価格とは言っても当時の僕にとっては気が遠くなるような高額な機材を命がけで日本に持ち込みスタジオを組み上げました。
こうした実績がない、全く無名など、無い無い尽くしの状況でありながら、SPLと僕は双方の可能性を感じ、絶対的な評価でお互いを鼓舞しあいながら今日の状態に持ち込みました。そしてご存じの通り、SPL社の機材はその後世界中のメジャースタジオで採用となりましたし、僕は15社以上の国際エンドーサーを獲得し、これでもかというほどの仕事で実績を上げることが出来ました。しかし元々は何ら安心材料など一切ない、非常に不安定な状況から積み上げて行ったお互いの関係性であり、この可能性こそを見抜く力、そして新たなことに果敢に挑む力こそがこれらの日本の音楽プロダクションに求められるところだと思っております。
聴く力とは、感じる力であり、そしてその感じる力を信じて突き進む力強さこそが、音の哲学と言えると僕は定義づけています。こうした信念が自らの耳を養い、足りない箇所は情熱をもってしてあらゆる手立てを使って何とか穴を埋めて行くことで、気が付けば魅力的なエンジニア、リスナーになれることと思います。
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