スキップしてメイン コンテンツに移動

音の哲学について(2)

国際公式エンドーサーであるSPL製品は、一番のお気に入り

明確な音の解が必要なことについて、前回のブログで書かせて頂きました。では、バークリーで習うような論理性あるサウンドの方向感というものが、どういうものなのか?そしてその解というものは、どのようにして手に入るのかを書いてみたいと思います。

昨日とある会話の中で面白いことを聴かれました。昨日のブログ記事を読んだスタッフから、

「バークリーで習うことは、理論なのか感性なのか?」

という内容です。とても良い質問です。この質問を背景に”音の課題をどう解決するのか”という箇所に触れてみたく思いますが、先ずここで考えたいのが、西洋式に学んで日本人がそのまま西洋式の音楽文化を取り入れられることはまず無いということです。これは絶対的と言ってよいほどの違いを感じることは多々あり、あらゆる面で全く別物です。なぜか?答えは簡単で人種が違うからです。自分の場合はアメリカで学んで、ヨーロッパで成功しましたので、アメリカとヨーロッパの違いも良くわかっているつもりですが、その違いとは一概に比較できないのが日本人の感性です。この違いの根本を理解できないと、スタートラインにも並べないと思っています。

アメリカの白人社会は、ヨーロッパからの移民です。つまり彼らは、何千年と続く血脈の中で築かれた西洋音楽の正当な血筋を脈々と受け継いで、つい250年前にアメリカが建国され移民として移り住み、その子孫として現在に至っています。なので音楽においては、過去から現代においても最先端の音を育む正真正銘のヨーロッパ人が起源であり、そこへアメリカならではの風土が育んだパワー感あるビジネスとが融合したことで、一大産業となりました。ですので、元々は宮廷の貴族音楽というものはアメリカ人たちにとっては中世から受け継いできた懐かしいものであり、決して私たち日本人にとってのような捉え方とは別物です。アメリカ人たちが持ち合わせるバックグラウンドの根底は、先に書いたとおりのヨーロッパが発祥であり、それ故に現代の音楽が持ち合わせる昨今の音質というものは、ほぼ宮廷音楽や教会音楽に起源があると言えます。それはバークリーに居たカナダや南米の人々からも、同じイメージを受けました。

何故この背景をここまでしつこく書いたかというと、背景、つまりはバックグラウンドこそが感性の源であり、日本人たちが素のままで西洋人たちが持ち合わせるような音の感覚を、同じ人間だと思うよりも異なるアプローチで勝負した方が良いということを言いたかったからです。なので、先ほどの

「バークリーで習うことは、理論なのか感性なのか?」

という質問に対して、先の文面と総合すると

「元々ヨーロッパ人であるアメリカ人たちには音楽の素養が長い歴史から培われており、音楽への感性は既に持ち合わせている。その感性を刺激するような理論を積み重ね、教授たちは指導してくる」

という回答になります。元来持ち合わせている感性を刺激してくる理論であり、理論を理論としてとことん計算式で成り立たせるような指導ではありません。あくまで感性という土台の上に立った理論なので、感性がすっぽ抜けていると中々辛いのではないかと思います。

海苔が日本人にしか消化できないことは知られています。これも人種故のことですし、ドイツでお寿司を食べると、日本とは別物です。色形は似ているかもしれませんが、くら寿司の何倍も払って、日本人としてはとても寿司とは呼べないかな・・・というものが出てきます。ドイツの寿司が日本人にとっては大分違うように、現代のエンターテイメントにおけるトップランナーである西洋音楽の音の在り方というものが、日本においては大分異なるのかと思います。

では、僕はどうやってSPLやelyasia、Kii AudioやMAGIXなどから認められる仕事に繋げたのか?どういった感性を使って、西洋音楽で成功して行ったのか、次のブログではそのあたりの内容を書いてみたいと思います。


 

コメント

このブログの人気の投稿

日本で230vの運用について

電源において200vは簡単に引くことのできる国内ですが、ヨーロッパ製が大多数を占めるスタジオ機材においては230vがメインのため、電圧が足りない状況に陥ります。故に200vを減圧して115vで使用するケースが殆どと言え、この200vをなんとかして230vで運用してみたいと思った方は多いはずです。 もっとも僕もその一人で、アメリカで聴くサウンドとヨーロッパで聴くサウンドの違いというものは、双方の国に行くたびに感じていたことでした。勿論考え方が根本的に異なる両者ですので、違いが出て当然なのですが、機材の違いでもなく録られる音質の違いでもなく、何か本当に根っこの部分でヨーロッパとアメリカの違いというものを感じていました。僕も手っ取り早いので、115vは直ぐ様導入して100vとは異なる音質を手に入れることはできていました。 ここで電源やケーブル、タップ類の話になる前提として、絶対的に根本的な考え方が根底で出来ていること、そして自らの耳を常に疑われる、非常にレベルの高いクライアントたちから、ガンガンにクレームを言われながら鍛え上げられている柔軟な感性を持ち合わせていること、そして世界中の新曲に触れる機会に恵まれていることが絶対条件になります。自で 『 自分の作る音ならば間違いない、俺の価値観は絶対だ』 と思ったり考えているのであれば、その人は決して上に突き抜けることはありません。その考え方で、どうにかなってしまうクライアントしか仕事を受けられないからです。最高レベルに行き着くこともなく、成長はそこで止まります。適正な報酬、最高レベルでの感性と技術を売り込めば、それなりに自らの感性にも技術にも自信のあるクライアントからオファーを貰うことになります。そしてガチンコで意見を出し合いながら音を構築していくわけで、その場では必ず意見の衝突が起きます。その衝突を糧としながら、自らの感性や視野を育てていくことになり、そうしたクライアントと年に10人も出逢えばかなり揉まれます。自らの価値観など無に等しいくらいに否定され、揉みに揉まれて最後に残った価値観こそが自らのものとして最終的に残ることになるでしょう。また痛いのは、海外からのオーダーで、言語が全くわからない曲があったりします。例えばドイツ語やイタリア語、スロバキア語やウルド語(インド・パキスタン周辺の公用語・・・なのかな)が用いら...

SPL Channel One Mk3レビュー

以前にデモ動画を担当させて頂いた、 Channel One Mk3 について触れてみたいと思います。この動画は国際エンドーサーのデモとしてSPLの本国でも採用されているのですが、サクッと撮影してしまいましたので、画角など課題も多いですが、アマチュア感溢れる動画にどうかお優しい目線で見て頂けると幸いです。 さて、この機材としての所感として、孤高で最先端を行くSPLならではということで、先ずは非常に多彩であることは動画の通りです。真空管のOn/Offまで盛り込まれており、チャンネルストリップとしては限界とも言える機能の盛り込み方で、元々多彩なSPLの機材の臨界点を見たような気分です(笑)。各機能については、マニュアルと動画を併せ持たせて理解を進めて頂ければと思うのですが、恐らくは皆様何と言ってもこの機材の音に対しての所感を書いて欲しいところかと思います。 先ずChannel One Mk3は、120vが採用されていないというところが最も大きい特徴かと思います。120vの搭載/非搭載は、SPL社が『この機材をこういう音にしよう』という前提がかなり色濃く出るところでして、120vが採用されている機材は、良い意味でも悪い意味でもスーパークリーン、限界を超えるようなHi-Fiを求める方は是非120vを積んだ機材へ行っていただきたいと思います。それに比べ、120vモジュールを積んでいない機材に関しては、SPLならではのクリーンさと共に『かっちり感』『固まり感』というものが全面的に押し出されている感じがします。ここは本当に使い分けだと思いますので、理想は120vを積んでいるスーパークリーンの代名詞であり限界値とも言える Crecendo と、120vを積んでいない今回のChannel One Mk3双方に持ち合わせていることが楽曲制作により華を持たせてくれるかと思います。 今までの作品でも僕の場合は、この辺りの音色感で使う機材を決めていたというところがあります。 例えば、ジョン・キャペックを迎えて制作したエルトン・ジョンのYour Songを、エルトン・ジョンのドラマーとしても著名なチャック・サボを迎えて、実際にドラムを叩いてもらった作品があります。この時僕が使用したドラム向けのサミングミキサーは、 Mix Dream を使用しており、このMix Dreamには120vは採...

elysia / xpressor, nvelope, xfiter, karakter レビュー

elysia導入。その① 近年の音楽制作において、様々な模索をし膨大な時間と労力をスタジオワークに注いできた。演奏家として自らのスタイルを確立していく中で、追い求めるサウンドの理想はしっかりと見えていながら、中々先行きの見えない手探り状態が長く続いた。その理由の一つとして、自らが求めるサウンド感が日本国内には存在していなかったこと、そしてその実現に向けて世界に目を向けたところで、膨大な量の情報が集まる中での模索は困難を極めた。 『著名な欧米人エンジニアに仕事を頼んだが、自らのプロフィール写真はアウトボードばかり写っているが、実際のところはプラグインが相当量使用されていた。』 などの情報も混在し、メジャーどころのプラグインは一通り試してみた。しかし一聴すると良いと思えるものも、突き詰めれば突き詰めるほどに、またハイレゾリューション・オーディオを意識したサウンド感を生み出そうとすればするほど、必ずと言って良いほど、完成した音源は破綻をきたしていた。滑らかに曲線を描くはずであった弦楽器の音色は、デジタル処理されたプラグインにスポイルされ立体感を失い、幾通りにも重ねられたプラグインは、拘りこそ感じられるが最終的な理想とする仕上がりには程遠い。一体何がこうさせているのかを模索しても、デジタル処理の限界を超えられることはなく、特に奥行きと幅を求められるアコースティック楽器を主流とした音作りには工面させられた。何百時間、何千時間とスタジオで音色を求めようとも、回答は結局のところ得られなかった。 しかし、転機が驚くところで与えられた。 文化庁からの招聘で、学校コンサートを依頼された折、校歌を歌って欲しいとのことでCDを渡された。 『ICレコーダーか何かで録ったのかな・・・』 という程度に受け止めていたが、仕事に向かう道中カーステレオから流れてきたその校歌に驚かされた。内容としてはシンセサイザーの打ち込みとコーラスで構成されていたが、明らかに幅と奥行きが存在していた。自らが持ち合わせていた先入観に等しい、『学校の校歌にそこまでの予算をかけることはないだろう』という考えがサウンド側から覆され、校歌というシンプルな音楽の上に立った時、それがコンソール経由で制作されたことがクレジットからも読み取れ、またその校歌自体はSSLやNeveほど高価なコンソールを使用していない...