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SPLユーザーである特権

  元々はSPLユーザーである僕が、SPLの国際公式エンドーサーとなったことで、SPLのユーザーに与えられている特権を実感してきたのでお話してみたいと思います。 特権とは何ぞやというところですが、やはりそのメーカーがどの立ち位置で活動しているか?という箇所は非常に重要と思えます。例えば僕のスタジオの写真に用いられているマスタリングコンソールは言うに及ばず、同じく写真内に収められているヘッドフォンアンプ:Phonitorシリーズも、アビーロードスタジオなどで使用されています。 世界の頂点であるアビーロードスタジオで運用されているということは、皆さんが恋焦がれるアーティストたちも同じ環境・同じヘッドフォンアンプを用いて聴いてきたということです。世界の頂点がどう音色を聴いて、どう判断し楽曲をリリースしているのか?詳細なディテイルが同じ機材を用いることで、全く同一の音色で聴くことが出来るということです。これは中々できることではなく、皆さんは恐らくはアビーロードスタジオなどは全く別物の世界と思われているのではないでしょうか。しかしSPLのユーザーになることで、別世界と思い込んでいた頂点の世界に触れることが出来るとともに、全く同じ環境というのはある意味言い訳は一切できないわけですから、音の聴き方という意味でも研ぎ澄まされた感覚を養うことが出来ます。 音の聴き方というものが存在するのか?思われるかもしれませんが、僕が世界で活動してきた感覚として、ドイツなど音楽先進国で聴いている音のポイントと、日本国内とではかなり”聴き所”が異なると感じています。良く機材などの聴き比べをしていても、西洋人の方が反応良く 「著しく変化した」 などの反応を見ることがあります。これは音を構成している対極的な部分、楽曲の概要と表現しても良いかもしれませんが、いわゆる大枠の部分と、各楽器のセクションごとの一つ一つの緻密な聴き分けというものが、非常に繊細に感じられていると思われるケースに遭遇します。そのうえ楽曲の美というものを全面的に受け止めており、これらが融合することで総合的な芸術と捉えられているので、表面的にサラッと聴いているイメージはありません。ただ、このような分析をして聴いているわけでもなく、ネイティブな感覚として芸術の在り方が体に染みわたっているから故に感じ取れる姿とでも言いましょうか。この...

音の哲学について(4)

  ここに写っている機材だけでも、日本未上陸の機材ばかりである 音の哲学についてここまでシリーズで書いてきましたが、結局のところどうすることで自らの音の哲学を確立し、魅力的な音を作り、的確な聴き方を手に入れられるのか・・・今の日本の音楽プロダクションや音楽業界全体として、現在は岐路に立っていると思っています。 結局のところの結論として、作る場合でも聴く場合でもグローバルスタンダードを強く意識することに、議論は集約されるものと思っています。 世界はインターネットによってどんどんと狭くなり、情報を世界中から得ることや意思疎通を行うことはもはや少しも難しいことではなくなってしまいました。翻訳機能も相当に進んだ昨今、言語の壁はもはや無いと言えるでしょう。同時通訳は既に人の手によるものではなく、誰もが簡単に手に入るソリューション・アプリとして使えるものへと変貌を遂げています。そうなると、これまで言語の壁が大きく隔たりを作っていたとされる前提は完全になくなり、もはや”能力”だけに世界との隔たりの議論は集約されます。では、この能力とはいったい何なのか?僕の場合はアメリカやヨーロッパとのリレーションによって、学びや仕事が人生の多くを占めていますので、日本との格差というものを肌身で感じてきました。 それらを端的に述べるのであれば、新たなことへの果敢な挑戦と、その挑戦を社会全体で育む文化においては、日本が大きく学ぶ必要のある点だと思っております。 これまで僕は日本に多くの機材を持ち込んできました。しかもそれは国際エンドーサーとして、日本には情報が非常に乏しいものを国内へ持ち帰りました。この時に 「必ずこの機材は、僕の音楽活動にとって大きな分岐点となる」 と思い、一大決心をして大量の情報と共に自分の信念に従いました。そして、そもそもこの国際エンドーサーを成立させるためには、先方のメーカー側のオファーが必要なわけでして、当時僕が一番最初に国際エンドーサーとなりえたのは何と天下のSPL社でした。結局「SPL社ほどの会社が認めたということであれば」という思考がその後に国際エンドーサー獲得を大きく後押ししたことは間違いありません。天下のSPL社が最初の国際エンドーサー契約というのは、恐らく皆さん想像だにしなかったと思います。もう少しライトなメーカー、例えばプラグインメーカーなどから入って...

音の哲学について(3)

  廃盤になってしまった、SPL NEOSエンドーサーモデル。この機材が無ければ、生まれなかったサウンドは山ほどある。 では、僕はどうやって世界に認めて貰えたのか?また、その感性や技術というものは、どうやって身に付いたのか?ここに自分の体験談も併せて、ご説明してみたいと思います。 一つ大きなファクターとして、背景を色々と説明すると長くなりすぎので割愛しますが、音の概念自体は20代中盤にニューヨークでピアノの音を学ぶ機会を得ています。それは日本国内でのサウンドが、大分概念が異なると思っていたので、それを追求するための期間でした。僕のこれまでの半生は、ビジネスと音とが交互にやってきていて、音や音楽に傾斜するとその期間は修業期間として収益は殆ど出ない中で、何とかそのスキルを身に付けて次のステージに行くということを繰り返しています。それが今になり、年齢的な経験値も併せ持った上で、ビジネスと音とが相互に上手くかみ合ったところでビジネスのグロースのフェーズに入っています。 そして、ニューヨークで学んだ後は完全に独学で、日本国内で音の感性というものに触れたりですとか、何かしらのアプローチというものは行わずに、30代でバークリーに入って学ぶ機会を得ます。つまりは日本国内での音の教育を受けたことがありません。聴き方、感じ方は世界のグローバルスタンダードを学び、常に意識し・聴き・感じ・アウトプットしようとしていました。また、勉強は得意なようで得意ではなく、苦手なようで得意という変わった人物像故に、何か特化して学んだ折にはとてつもなく結果を出すようなところも持っていたので、論理性と感性を融合させた形で話の展開がなされる西洋人の対話は大好きでした。また、インターナショナルスクールの卒業生でもあるので、子供の頃から西洋社会に慣れてはいました。 これら背景が僕にはあります。この諸要素が、その後の活動にどう活かされているのかは、自分自身でもよくわかりませんが、しかし、何かしらの形でヨーロッパでの成功に導いてくれたことは間違いありません。また西洋人、特にエグゼクティブたちとの付き合いにおいても、僕が持つ独特の性格が彼らに好かれ、妙にかわいがってもらったところがあります。その性格は世界のトップアーティストたちとの仕事でも活かされましたし、メーカーとの付き合いにおいては、高いハードルを自分に設...

音の哲学について(2)

国際公式エンドーサーであるSPL製品は、一番のお気に入り 明確な音の解が必要なことについて、前回のブログで書かせて頂きました。では、バークリーで習うような論理性あるサウンドの方向感というものが、どういうものなのか?そしてその解というものは、どのようにして手に入るのかを書いてみたいと思います。 昨日とある会話の中で面白いことを聴かれました。昨日のブログ記事を読んだスタッフから、 「バークリーで習うことは、理論なのか感性なのか?」 という内容です。とても良い質問です。この質問を背景に”音の課題をどう解決するのか”という箇所に触れてみたく思いますが、先ずここで考えたいのが、西洋式に学んで日本人がそのまま西洋式の音楽文化を取り入れられることはまず無いということです。これは絶対的と言ってよいほどの違いを感じることは多々あり、あらゆる面で全く別物です。なぜか?答えは簡単で人種が違うからです。自分の場合はアメリカで学んで、ヨーロッパで成功しましたので、アメリカとヨーロッパの違いも良くわかっているつもりですが、その違いとは一概に比較できないのが日本人の感性です。この違いの根本を理解できないと、スタートラインにも並べないと思っています。 アメリカの白人社会は、ヨーロッパからの移民です。つまり彼らは、何千年と続く血脈の中で築かれた西洋音楽の正当な血筋を脈々と受け継いで、つい250年前にアメリカが建国され移民として移り住み、その子孫として現在に至っています。なので音楽においては、過去から現代においても最先端の音を育む正真正銘のヨーロッパ人が起源であり、そこへアメリカならではの風土が育んだパワー感あるビジネスとが融合したことで、一大産業となりました。ですので、元々は宮廷の貴族音楽というものはアメリカ人たちにとっては中世から受け継いできた懐かしいものであり、決して私たち日本人にとってのような捉え方とは別物です。アメリカ人たちが持ち合わせるバックグラウンドの根底は、先に書いたとおりのヨーロッパが発祥であり、それ故に現代の音楽が持ち合わせる昨今の音質というものは、ほぼ宮廷音楽や教会音楽に起源があると言えます。それはバークリーに居たカナダや南米の人々からも、同じイメージを受けました。 何故この背景をここまでしつこく書いたかというと、背景、つまりはバックグラウンドこそが感性の源であり、日本人たちが素...

明けまして、おめでとうございます。少し音の哲学について触れてみます。

  IGS Audio4機種と、今は無きBettermaker500で味わいあるサウンドを作った。 明けまして、おめでとうございます。 年末年始もずっと多忙だった僕ですが、お仕事がきちんと頂けることは大変うれしい限りです。僕の仕事はBtoC(個人のお客様)相手は殆ど存在しなく、BtoB(対企業のお客様)が殆どですので、世間が止まっている間に考えられる仕込みをしておいて、休み明けに一気に動ける体制を作っておくことが求められます。 さて、そんなBtoB業務の大半も音が大半でして、いわゆる音楽プロダクションとは毛色は異なるのですが、音という分野であることは何も変わりません。むしろこちらの方が主流でして、市場規模が大きいことからも事業の在り方としては基盤はあくまでBtoBというところがあります。 そんな年末年始の仕事を通して再度思ったこととして、「音を如何に作って行くのか」ということに対しては、これまでもあちこちで発言してきているのですが、とにかく求めようとする着地ポイントを明確に自分の中に映し出して、青写真で見えていることだと思っています。この求めようとする音のビジョンが明確であればあるほど、行き付けるゴールの姿というものはよりレベルの高いものになるはずです。 何でもそうなのですが、ハイレベルな世界というものはゴール設定が明確であり、その景色というものがハッキリとしたものとして設定されています。スポーツであれば、タイムを競ったり勝利したりとハッキリした指標がありますが、音の世界となるとかなり抽象的なものとなります。このハッキリしない世界観の中で、ハッキリしないビジョンのまま進んでしまうが故のエラーというものを数多く見てきていますが、皆さん如何でしょうか?何をもってしての「正解」と言えるのか、思いとどまったことはありますでしょうか? 例えばメジャースポーツであれば、人数も多いですし歴史もあります。日本だと野球だと思いますが、僕も激しい野球少年だったが故、そのメソッドがはっきりと示されていることを知っています。「甲子園で勝つにはこういうプレー」というものが明確化されており、そのメソッドには多様な意見はつきものですが、凡そのアウトラインというものは引かれています。そしてそのメソッドのクォリティが、現在日本が世界一のランキングを誇るスポーツとして、野球を押し上げたのかと思...