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世界と日本の音色の違い


皆様こんにちは。
常に環境は変化しますが、更に最近は刺激の多い毎日で、私自身も大きく夢を育むことが出来ています。
さて、そんな毎日の中ですが、機材や音作りに関するご質問を多々頂戴しますので、今回のブログ記事に交えましてご回答をしていきたいと思います。

今回は、音作りにおける『耳』をどう養うのか?という箇所に照準を当ててみたいと思います。機材を導入する折、またその導入した機材をどういう方向性で扱っていくのか?もしくはそもそも自らのスタジオ内で、どういう音を目指すのか?目指した先に、更に求められるものは何なのか?この辺りを共に考慮してみましょう。
私の仕事環境は、既にご存知いただいているかと存じます。昨今流行りのOnline Mastering & Mixing(海外では、Remote Masteringなどと呼ばれています)を用い、世界中から音源制作を受注しています。国に関しては、最近はもう全くもってのボーダーレスという状況になりました。着手した折には、アメリカやヨーロッパが多かったのですが、最近では東南アジアから中国・韓国、加えてドバイを中心とした中東やインドを筆頭に西アジア諸国、そしてアフリカまでもがアクセスを頂く状況です。ここまで来ると、所謂全世界という言葉が似合うかと思いますが、それと同時に内外価格差や物価の違いも顕著に感じる仕事でもあります。先日はネパールからデビューする新人のマスタリングを依頼された折、当方で定める世界標準の額面を提示したところ、彼らの月収だという回答がありましたが、そのまま依頼を受けたこともありました。
しかしこの内外価格差の激しいネパールから送られてきた音源は、かなりのレベルで作られていたことを記憶しています。同じように物価の低い傾向にあるアフリカも、音質のレベルというものになると非常にクォリティが高く、所謂グローバルスタンダードに所属する音質です。現代の音楽制作環境においては、様々に事情は有るのかもしれませんが、それでも一定の基準というものにどの国も準拠してくる傾向というものを感じます。
それと対象的なのが日本の音楽制作、並びにスタジオワークです。簡単に言えば、世界から送られてくる音源とは異なり、唯一無二の方向性で作られています。巷で言われる、
『洋楽とJ-POPの音質の違い』
というものは、むしろ
『世界とJ-POPの音質の違い』
ということで表現した方が良いのかもしれないと思い始めました。
勿論イギリスのサウンド、アメリカのサウンド、ドイツのサウンド、フランスのサウンド、それぞれに個性というものはあります。これは毎回仕事を受ける度に感じていますし、自らがリスニングする音楽を聴くたびにも感じることです。しかし、個性は有るにせよやはり一定の世界基準というものには準拠している感があり、何故か日本のみが音における独特の文化を形成していると感じます。
どうしてこういった独特の文化が育まれ、そして受け入れ続けられているのか?また
『洋楽とJ-POPの音の違い』
については、ほとんど誰もが感じていながら、どうして世界基準へと準拠していこうという動きにならないのか?歴史なのか?特有の文化なのか?或いは言語などから来る、特有の性質であるのか?何とも回答は出しづらいところがありますが、私個人として感じることとしては、それが島国であり、諸外国との交易においてはどうしても縁遠くなってしまっている現状が有るように思えます。特に音楽産業は、ドメスティックの印象が色濃く出ているように感じられます。例えば先程のミャンマーのように、経済的にはまだ発展途上国という立ち位置にいながらも、サウンド面では音楽先進国に準拠しようという意識を強く感じられます。そういう意味では、日本はある意味唯一無二の音文化を築いており、独特という言い回しもありますが、その独特の音がグローバルスタンダードになることが今後も考えにくいことから、ある種の違和感として私は捉えています。
これは音楽の根本を勉強したり、またはアコースティックのKing的存在であるピアノを学んだ折にも感じたことですが、ある意味日本人は音というものを扱うのが苦手なのかもしれないと考えるようにもなりました。いい加減世界がある一定の基準を設けて、一斉にその基準に対して準拠しているところに対して、日本だけがなぜそっぽを向いているのか?これは個性ということではなく、やはり違和感です。
楽曲の構成方法や音質は、どんどんと広がりと可能性を見せる昨今であり、新しくリリースされる機材からもそれを顕著に感じ取ることができます。上にも下にも、左にも右にも音は広がりを見せ、広大な空間に自由に音色を描ける環境が整っているにもかかわらず、機材メーカーたちの血の滲むような努力とは裏腹に、国内は相変わらずレンジも空間も色彩感も、何もかもが狭いままです。
普通に楽曲を聴いていれば出来ることではないか?と思えますし、昨今は洋楽など簡単にアクセスすることが出来、何らハードルなどない状況にありながらも、なぜに音が進化していかないのか?それにも関わらず、劣化やノイズに対しては異常なほどのアレルギー反応を示します。音色は徹底して削って狭くしていくけれど、劣化とノイズはあってはいけないというのが、何とも不思議な方向感でもあります。
では、私が日本のスタジオワークに対して感じる違和感を、どういう形で解決していくことが相応しいのかを考える時に、これは音の構築方法の前に、根本である『音の聴き方』もしくは『音の価値観』を教育する機関が必要ではないかとも思っています。聴き方がズレているから、結局最終的に行き着くポイントもズレてしまうというこの現象を、大きな力を持ってして変化させていくことが必要かと思います。
例えば私自身に何が出来るかを考慮する折、現在世界屈指のヨーロッパメーカーと直接エンドーサー契約をしている人間は、私の知る限り国内で自分だけであり、それを誇りに思っているうちは幼いと言えるでしょう。視点を変えれば、グローバルに通用しないこのスタジオワークに対して、明確に
『ここが違う』
という権利を得ているのは、裏付けのあるエンドーサーであり、エンドーサーとして指名されるまで構築されてきた世界的な実績と言えるわけです。その実績を踏まえた上で明確な形で次の世代へも道筋を示す必要も感じており、更には、自分が8社ものエンドーサー契約を結んでいった過程があるわけですから、どういう仕組みを持ってして、世界に通じるエンジニア・プロデューサーを育てるかという手法も知っているわけです。才能の向き不向きの見極めも含め、そろそろ指導する立場というものも取りたいと思い始めました。
以前は余りに違いすぎるこの国内外の現状を踏まえ、殆ど諦めの境地で自らの活動に専念していましたが、若い気迫あふれる若者たちの出現もあり、真に世界を目指す志の高い人材を育てていくことで、グローバルスタンダードの音を作れる人たちの創出という視野を得るに最近至りました。
そして様々にトライをしてきていますが、そう簡単にその変化を与えることを許されない現状も感じています。それはこれまでの歴史の中で刷り込まれてきた、日本特有の音から離れること自体に違和感のある人々も多く、再度聴くポイントからして自らに変化を与えるような勇気というものから逃げてしまう節も見受けられます。

今回のブログで、一つの結論を導き出すとするならば、自分が経験してきた世界でチャートインする楽曲のマスタリングであれ、数十億人に対して制作される楽曲に参加するのであれ、双方に自らが意識したことは、日本の音楽業界の考え方、スタジオワークの習慣、音に対する感性からは、兎に角遠ざかることで世界に出ることが出来るのは、私自身が経験した紛れもない事実です。聴くポイントも感性も、これら全てにおいて日本から離れ、大好きな洋楽アーティストを聴き込み、制作で音を真似ていくことで先ずは行き着ける境地というものが有るはずです。
こうした考え方の上に機材の選定があり、そして実際のスタジオワークが乗ってくるわけですから、何かが少しでも起点がずれれば、幾重にもなって方向感が異なってしまうことは確かです。
音楽に関わる人間が、日頃の鍛錬として音楽を聴くこと自体、野球選手で言えば素振りのようなもので、ケース・スタディと引き出しを増やす意味でも膨大な楽曲における知識は必要と言えるでしょう。
先ずは聴くこと。そして聴くポイントを意識することから、全てが始まるかと思います。



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